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原発訴訟

2015年3月20日 (金)

3・1ビキニデーin静岡”に参加して

”3・1ビキニデーin静岡”に参加して
新婦人早良支部平和部 Hさん(室住班)

 アメリカによる、マーシャル諸島での核実験で第五福竜丸を始め、たくさんの漁船が死の灰を浴び、ここから原水爆禁止の運動がスタートしたことを今までの学習で知り、ぜひ、ビキニデーに参加したいと思いました。

 戦後70年、被爆70年の今年はNPT開催の年でもあります。
「2015年被爆70年を核兵器のない世界の転換点に」を大きなテーマとして日本各地のNPTへの参加代表者らが集いました。彼らの決意表明の発言は、力強く有意義で、中身の濃いものでした。
 中でも、福島県代表の20代の青年の発言は、今でも心に残っています。
彼は、2010年のNPT再検討会議の後(その年の5月)に、2015年のニューヨーク行動参加を決意したそうですが、その翌年に東日本大震災に遭い原発事故の悲惨さを、身をもって体験しました。核兵器廃絶を訴えるためのニューヨーク行動で、原発反対を言わなければならない状況になったことに大きなショックを受けたそうです。「ニューヨークに行ってまで「原発反対」をいいたくはない。だけど、世界中の人々に原発で人類は幸せにならないということを知ってもらいたい。」と言っていました。

ロンゲラップ島で被爆したピーター・アンジャインさんは、「生まれ育った島に帰ることすらできず、福島県飯館村の人々と同じです。安全だという米政府の言うことは信用できません。安全というのなら、まずあなたたちが家族と島に住んでみなさい」というそうです。
 マーシャル政府は昨年、国際司法裁判所に核保有国9ヶ国を提訴しました。会場から「どのような経緯からそういうことができたのか」との質問があり、アージャインさんは「政府がとった行動だから、私は詳しくわからないけど日本の草の根運動が、、後押ししたのは確かです。」と言われ、私たちの核廃絶運動に確信を持ちました。

 分科会では、「放射能を浴びたX年後」の映画に出ておられる高校の社会科の先生、山下正寿さんの特別講演を聞きました。
 山下先生は、息子が長崎で被爆し、ビキニでも被爆し、入水自殺をしたという一人のおばあさんの話に驚き、高知県でもビキニで被爆した漁船があることを知り、調べ始めたそうです。政府が隠し続けてきたことに対して、「こちらが真実を科学的に、一つずつきちんと実証し、突き詰めて攻めたら、相手は必ず崩れる。」と言われたことが印象的でした。第五福竜丸以外に1423隻もの船が被爆していたのです。
 ジョセフ・ガーソンさんの「私たちの行動は、権力の場にも影響を及ぼしている。原水協は、核兵器のない世界の実現に向けた運動の光であり、原動力である。」との言葉に、涙があふれ元気と勇気をもらいました。

 安倍総理が「戦争する国」へと突き進んでいるような、今のこの情勢にとことん抵抗しなければと再認識しました。

2014年8月 4日 (月)

「九州玄海原発訴訟」第10回裁判 意見陳述 -NO3-

 「九州玄海原発訴訟」第10回裁判 意見陳述書

 後藤文治 -NO3-

第6 さいごに

 私はこの世に生を受けてから、社会の一員として真面目に人生を歩み、家庭を持ち、何十年とかけて人との絆を、信頼関係を築いてきました。
家族、友人、同僚と、互いに助け合いながら楽しく人生を送ろうとしてきました。
私が長い人生の道のりで作り上げてきた平凡でごく普通の生活、家族との暮らし、友人と行く釣り、酒を飲みながら交わすたわいもない話、友人の作った米やみずみずしいキュウリを食べ、野菜を渡しあう時の友との会話、これらが私のかけがえのない宝であり、私の最大の幸福です。

しかし、原発事故は一瞬にして私の幸せを奪い去りました。
私はその原発を憎んでいます。
そして私は、誤った判断をし続けてきた電力会社と政府を信用していません。
玄海の原発が、そして全国の原発が動くことは、どれだけの小さな幸せを奪うことになるのか想像していただきたい。

憲法は、一人一人を尊重し、それぞれの幸せを追求することを保証してくれていると聞きました。
もう二度と私の小さな幸せを奪われたくない。
原発を認めず、この私の普通の生活を保障していただけるようお願いしまして私の陳述を終わります。

以上

2014年7月31日 (木)

「九州玄海原発訴訟」第10回裁判 意見陳述 -NO2-

 「九州玄海原発訴訟」第10回裁判 意見陳述書

 後藤文治 -NO2-

第3 友人との交流が断たれたこと          (前回)

 私は48年間福島に住み、多くの友と出会いました。
私は釣りが大好きで、月に3~4回、友人と渓流釣りや海釣りに出かけていました。
息子が小さな頃は息子も連れて行きました。
相馬の海に行き、カレイやアナゴを釣り、家から30分ほどのところにあるきれいな渓流でヤマメやイワナ釣りを楽しみました。
渓流釣りは、「朝駆け」といってよく釣れる夜明け頃が勝負です。
私は友人と夜明け前から出かけ、午前中の釣りを楽しみ、午後は山を下りながら四季折々の山菜を摘み、家に戻ってから釣った魚や山菜を調理し、それをつまみに酒を飲みました。
気の置けない友人と夜遅くまで釣りの自慢話や政治談義に花を咲かせ、怒ったり笑ったりして過ごす時間が本当に好きでした。

 私には30年来の釣り仲間で米農家の友人がいます。
私は彼の作る米が美味いので、毎年毎年買って食べていました。
私は彼の米をもっと美味しく食べるために10キロずつにわけて精米し、精米したばかりの米を炊くようにしていました。
 しかし、震災後、私は米への放射能汚染があることを知り、彼から米を買うことができなくなりました。
私が彼に「もう米は買えねえんだ、すまねえ」と言うと、彼は私を責めることもせず、ただ苦笑いしながら「そうだよな。仕方ねえな」と言いました。
私はその時の申し訳ない気持ちと彼の苦笑いした表情を忘れることができません。

 その後、彼とも多くの釣り仲間とも渓流釣りや相馬の海に行くこともなくなりました。
決してケンカしたわけでも仲が悪くなったわけでもありません。
ときどき会えば笑って話をするし、お互いのことを気にかけています。
しかし、何か言い出せない、切り出してはいけない話題があるような気がして、酒を飲みながら釣りの話に花を咲かせていた頃のような楽しさを感じることがなくなりました。
自分たちが望んだわけでもないのに、友人との関係が少しずつ冷えていくような、消えていくような気がしました。

第4 収穫物を通した友人との交流が失われたこと

 私は、家から5分の所に畑を借り、野菜を作っていました。
農家の方が手取り足取り教えてくれて、すくすくと育つ野菜を見ていると、妻や娘に食べさせてやろう、福岡の息子に送ってやろうと家族のことを思い起こすのです。
ようやく収穫の時を迎え、獲れたばかりのキュウリのみずみずしさは格別です。
ホウレンソウは何もつけずにその甘みだけで美味しく食べられます。
スーパーで買う野菜とは全然違うのです。
 できた野菜は友人たちにもおすそわけします。
「うまいのできたからな、食べてみてくれ」と野菜を渡すと、友人からは「これ、うちで作ったやつだ。もってけ」といってちがう野菜を渡されます。
たわいもないやりとりですが、お互いの成績を認め合うような気持ちがして、今思えばすがすがしいやり取りでした。

 しかし、原発事故後、農作物への放射能汚染があることから私は畑に行くことを止めました。
しかし、野菜作りを続ける友人は「線量を測ってもらった。大丈夫だから・・・」と申し訳なさそうに野菜をくれるのです。
私は「ありがとう」と言って受け取りますが、汚染が心配で、どうしても食べられず、悪いなぁと思いながらもらった野菜を捨ててしまったことがありました。
以前のようなすがすがしいやり取りが友人への後ろめたさや罪悪感に変わってしまいました。

第5 孫に福島を見せたかったこと

 妻と長女と私は、長年住み慣れた福島の家を離れ、今年の3月、息子夫婦と孫が住む福岡に来ました。
福岡に来た当初、公園で遊ぶ楽しそうな子どもの声が聞こえたとき、私は驚きました。
私は事故後の福島で、外で遊ぶ元気な子どもの声をずっと聞いていなかったのです。

 私の孫はもうすぐ2歳になります。
その孫は福島に来たことはありません。
あの事故がなければ、私は孫に「うつくしま」と呼ばれる福島の豊かな自然を見せたかった。
私がかつて息子と行ったように、孫と一緒に山に行き、ヤマメを釣りたかった。
相馬の海を見せたかった。
そして、私たちが福島で食べている同じものを、私が作った野菜を孫にも食べてもらいたかった。
おじいちゃんやおばあちゃんが福島でどんな生活をしているのか、孫にも味わってほしかったのです。
(次回に続く)

2014年7月29日 (火)

「九州玄海原発訴訟」第10回裁判 意見陳述 -NO1-

 7月4日、佐賀地方裁判所で、「九州玄海原発訴訟」第10回裁判がおこなわれました。作家の早乙女勝元さんと後藤文治さんのお2人が意見陳述をされました。
今週から、数回に分けて、後藤文治さんの意見陳述をシリーズで紹介します。

※後藤さんの夫人和代さんは福島の新婦人会員として活躍されていた方です。
3月に福島支部から転籍のお知らせが届き、現在チューリップ班に所属されています。

意見陳述書 後藤文治 -NO1-

第1 はじめに
 
 私は、乳製品を作る企業に勤め、1966年5月に転勤で福島に来ました。その後、福島で結婚し、2人の子どもを育て、福島で定年を迎えた後は介護の仕事をしながら好きな釣りと家庭菜園をして48年にわたって福島で暮らしてきました。この意見陳述では私のささやかな幸せや友人関係が原発事故によっていかに破壊されていったかについて述べさせていただきます。

第2 震災当時の様子

 2011年3月11日の震災当時、私は、妻と長女と3人で福島市内にある団地に住んでいました。東京電力福島第一原発から北西に約60kmのところです。私の家はたまたま固い地盤の上に建っていたためか、地震の被害はわずかでしたが、その後、食料品や水が不足するという過酷な日々が始まりました。私は、原発が爆発したことや避難指示区域が原発から20キロ、30キロと線引きされる様子をテレビで見ながら、福島市内には何の指示も出なかったので、私たちの住む場所は放射能汚染の心配はないのだと思っていました。
 事故から数ヶ月後、私は自宅の放射能線量を測りました。すると室内で毎時0.5マイクロシーベルト、庭では1~1.5マイクロシーベルト、桶から流れ落ちる水の所や側溝の砂は3~3.8マイクロシーベルトでした。私はこの数値を見て、福島市内も危ない、政府は信じられない、ここで生活し続けていいのかと焦りました。自分も被曝している、自分の住む場所も放射能で汚染されていることを痛感したのです。

(次回に続く)

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