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2015年7月16日 (木)

父の思い出と平和に寄せて

 星の原班 K・Nさん (星の原班ニュース7月号から)

 私の手元に12枚の写真がある。
戦後生まれの私にとっては信じがたく思える写真だが、確かに父が生きてきた歴史のひとこまを写し出している。

父は明治43年1月23日に福岡を少し離れた小さな島、壱岐の島の百姓の長男として生まれた。

 青い空とゆうゆうと流れる雲、まわりは広い草っ原、自然がいっぱいの中で、多分、将来の夢に胸をふくらませて青春を迎えたであろう。
ところが、そのころの日本は徐々に戦争色を濃くし父もまた徴兵検査で甲種合格となり、上海事変・支那事変へとかりたてられていった。

 そのころ、母と知り合い、二人で満州に希望に燃えて渡った。しかし、満州にいると危ないという情報が入り急いで帰島したが、休む間もなく壱岐の司令部に三ヶ月訓練のため入隊、間もなく大東亜戦争へと進展、小倉へ入隊した。ジャワスマトラからハルマヘラへと任務へ赴いた。父は主任軍曹として後続部隊ではあったが、戦地でのすさまじさは私が小さい頃話してくれた。壱岐の島でさえ、終戦当時はいろんなデマが飛び交い山の中に隠れたり、出兵兵士を出した家の前には「誉の家」と札が掲げられたりしてあったそうだ。
 父は三度の出兵でも無事生きていたけれど、多くの人がそうだったように、弟の克己さんは二十歳にもならず戦死、お守りだけが残っていたと母が呟いていた。

 私の記憶の中の父は、晩年は物静かで、でも何か世間に対して諦めていたようなところが多々あった。時に好物の焼酎をたしなみながら、「天皇も人の子たい、飯も食わすし、屁もふらすとたい」とつぶやくように自分に語り掛けるように話していた。

 それは、夢多き青春時代を天皇という神のため、人を殺せと教えられた若者が、終戦ですべてが嘘だったことへの一種のショック状態ではなかったろうかと私は思う。そういう意味では、父もまた戦争の被害者だと思う。

 今また日本は戦争への反省もなく、憲法九条をいじり、いつでも戦争へ加担できる体制を作ろうとしている。周りを見渡しても軍事基地があり、私たちもそういう風景に慣らされようとしている。私たちの子どもたちを、父や母の生きた時代に戻すことはしてはならないし、そのためには、今、親である私たちがきな臭い風には敏感にならなければと思う。

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